ある日の誓い

 

 四ツ星学園の校門の前に、一台の黒塗りのリムジンが停車していた。運転席には黒の礼服に身を包んだ老紳士が、後部座席には学園の一般生徒を表す水色のワンピースタイプの制服を着た赤毛のロングヘアの少女が乗っていた。ドアと窓は閉められているため声は聞こえないが、ふたりが何か会話をしていることは、周囲にいた生徒たちには見て取れた。
「おはようございます、お嬢様。本日のご予定ですが、十一時より『密着!アイドルお嬢様』の撮影のため一度お屋敷へ。そのあとは十五時より雑誌『プチぷち』のグラビア撮影がありますので撮影スタジオへ参ります。撮影が終わり次第、四ツ星学園までお送りいたします」
 老紳士は運転用の真っ白な手袋をはめた両手でハンドルをしっかりと握ったまま、頭の中に完璧にインプットされている『お嬢様』の一日の予定を、まるでスケジュール手帳を広げて読み上げているかのように淀みなく少女に伝えた。それは『お嬢様』と呼ばれた少女にも慣れた光景だった。
「ええ、分かっているわ、鷺ノ宮。ところで、いつも言っているけれどわたくしの送り迎えの車……その、もう少し普通の車にできませんの? わたくしはまだ新入生ですのに、こんなリムジンでは目立って仕方ありませんわ」
 事実、校門には物珍しそうに少女の乗っているリムジンを見ている生徒が数人集まってきていた。しかしそれも無理のないことであった。この四ツ星学園でリムジンで送迎される生徒など、学園の四つの組――すなわち、歌組、劇組、美組、舞組――で頂点を誇るS4以外にありえないからだ。ほかの生徒はというと、通常は公共交通機関を使うか、せいぜい一般的なセダンタイプの乗用車、もしくはワゴン車による送迎で仕事の現場へ向かう。
「ですがお嬢様、旦那様からはこの御車で送り迎えするようにと申しつけられております。私も、この御車であれば光明寺家のご令嬢として十分相応しいかと思いますが……」
 少女に鷺ノ宮と呼ばれた老紳士が答えた。オールバックにきっちり整えられた銀髪に、豊かに蓄えられながら、手入れも行き届いている口髭、シルバーフレームのスクエアタイプの眼鏡の向こう側に見える、少し窪んだ眼窩から覗く深い眼差しは、鷺ノ宮が年相応に人生を丁寧に積み重ね上げた人物であることを窺わせた。鷺ノ宮の視線が、バックミラー越しに少女の視線と交わった。
「だから、わたくしは光明寺家の娘ではなく、ひとりの普通の女の子としてアイドル活動をやりたいのです。この学校でほかにリムジンに乗って送り迎えされているアイドルなんて、S4しかいませんのよ? それなのに、こんなわたくしが仕事のたびにリムジンに乗っていてはまるで特別扱いされているみたいですわ!」
 少女はバックミラーに映る鷺ノ宮の目を見つめながら答えた。それは、もはや日常の会話であった。特別扱いを嫌う富豪の娘と、家を第一に優先する執事。ふたりの会話はリムジンでの送迎のたびに行われたが、ずっと平行線を辿っていた。

 光明寺家は、少女の曽祖父が『光明寺映写技研』として会社を立ち上げ、海外から輸入した映写機の研究、独自開発を始めたことが今のルーツとなっていた。時代を経るごとに会社の規模も拡大し、映写機からプロジェクタ業界への参入も行ったが少女の祖父、すなわち先代社長が映写技術のライブや演劇などのエンターテイメントへの応用を推進し、少女の父である現社長、光明寺輝彦の代で空間の特定の空気分子に光を照射する技術を世界で初めて開発。これにより携帯電話などのポータブルデバイスからアイカツのステージ演出まで、映像の表現が爆発的に進歩を遂げ、一中堅企業だった『光明寺映写技研』は世界一の光学技術を誇る大企業『ミラージュダイン社』となり、現在の社会的地位へのし上がった。リムジンに乗っている少女、光明寺鏡子はそんな一族の娘としての運命を背負ってこの世に生を受けた。
 生まれた時から何に不自由することもなく、望むものは何でも手に入った鏡子は、輝彦の事業がアイカツとも深く関わっていたことから、幼い頃から自然とアイカツに興味を抱いていた。輝彦はそれを知ると娘のためにトップアイドルのライブステージのVIP席を何度も用意した。そうしているうちに、鏡子自身がアイドルの真似事をしてみたいと言い出すのは自然な流れだった。輝彦は鏡子の十歳の誕生日に合わせて、屋敷のダンスホールにアイカツシステムを実装し、衣装ブランドにプレミアムドレスを作らせて鏡子へ贈った。
 そして鏡子の誕生日当日、企業の役員や取引先関係者、各界のVIP、セレブ、そしてアイカツ界の要人を招いての盛大なバースデイパーティは、鏡子のライブステージで幕を開けた。大勢の招待客でにぎわうダンスホールに、輝彦がマイクを持って現れた。
「皆さん、本日はお忙しい中、娘の十歳の誕生パーティにお越しくださいまして誠にありがとうございます。我がミラージュダイン社は、世界に誇る光学技術でアイカツ界の発展に大きく貢献してまいりました。そして本日の主役であります娘の鏡子も、ひとりの女の子です。アイドルに興味を持つのは当然と言えるでしょう。だから私は父として、そしてミラージュダイン社の社長として、娘にプレミアムドレスとステージをプレゼントしました。鏡子は今をときめくトップアイドル、星宮いちごちゃんの大ファンで、本日披露するステージも、いちごちゃんの歌になります。親バカと思われるかもしれませんが、どうぞご覧ください。『輝きのエチュード』」
 輝彦が紹介を終えるとダンスホールは照明を落とし、瞬く間にイリュージョンステージに変化した。そしてステージの中央に、プレミアムドレスで着飾った鏡子がまるで突如何もない空間から現れたかのように登場した。すべてはミラージュダイン社の技術力が成す光学的視覚効果の産物であるが、パーティの招待客はアイカツのステージを実際に目の当たりにするのは初めての者が多く、驚きの声を上げていた。
 イントロに合わせて、鏡子が両手でマイクを持ち、体をゆっくりと揺らしている。歌が始まると、そこにはいちごのステージを真似て一生懸命に歌う鏡子の姿があった。この日のために彼女なりに練習を重ねたステージは順調にサビまで進み、あとは最後にスペシャルアピールを決めれば大成功に終わる。そしてスペシャルアピールが発動した。鏡子はステージの中央でポーズを決め、招待客の誰もが、そして鏡子自身もステージの成功を確信した。しかし、次の瞬間に見えた鏡子の視線の先は大勢の観客ではなく、ステージの床であった。そのまま鏡子は前に転んでしまった。アピール失敗だ。気が付くと床に倒れていた。それでも何とか立ち上がって、残りを最後まで踊り切ってステージは終了した。観客の大人たちは鏡子に温かい拍手を贈った。
 
 なぜスペシャルアピールが失敗したのか、鏡子には分からなかった。これまでの人生、学校の成績も、幼い頃から習っていたヴァイオリンもすべて一番で、一度の失敗もなく成功を納め続けてきた鏡子にとって初めて味わった屈辱と挫折だった。ショックのあまり涙さえ出ず、鏡子は頭が真っ白のままフラフラとダンスホールの控室へ向かった。そこはステージのバックヤードとして利用されており、部屋の中央にはアイカツシステムの制御装置が置かれていた。装置の前にエンジニアが数人と、輝彦の姿があった。何か揉めているようだった。
「どういうことか説明したまえ!」
 そこには、エンジニアに詰め寄って怒号を浴びせている輝彦の姿があった。
「それは……お嬢様のスペシャルアピールのタイミングが僅かにずれていたので……」
 エンジニアのひとりが言いづらそうにおずおずと答えたが、それが却って輝彦の怒りの炎に油を注いた。
「少しタイミングがずれているだけで失敗なんてあるものか!」
 怒り狂う輝彦に、今度は主任エンジニアが答えた。先のエンジニアよりは、はっきりとした態度での説明だった。
「お言葉ですが、アイカツシステムの根幹は高度な人工知能を有した光ニューロネットワークでして、システムとアイドルがシンクロしないと正しくアピールが発動しないんです。特に、プレミアムドレスを着た高度な技になればなるほど高いシンクロ率が要求されます。ハッキリ申し上げますと、今のお嬢様ではプレミアムスペシャルアピールを出す技量を持ち合わせていなかったとしかご説明できません」
「だったらなぜアピールができるように事前にシステムを調整しておかなかったのだ!」
 輝彦の言葉に、鏡子はまるでハンマーで頭を打ち付けられたかのようなショックを受け、その場に立ち尽くした。そしてようやく気付いた。今までの自分の成功と栄光は、全て父の権力と財力の上で成り立っていたのだと。このプレミアムドレスも、このステージも、何一つ自分の力で手に入れたものではなく、父から与えられたものだった。その上更にそんな未熟な自分に対して特別な計らいをさせようというのか。自分がしてきた事と言えばせいぜい数日間の歌とダンスの練習。これでアイドルの真似事をしようと言う方がおこがましかった。スペシャルアピールだって失敗して当然だ。鏡子のプライドは割れた鏡のように完全に打ち砕かれた。
 控室の扉の前で呆然と立ち尽くす鏡子の姿に、ようやく輝彦が気付いた。
「おお、鏡子……これは、だな……システムの調子が悪かったんだ。な、お前は悪くないんだ……お前のせいじゃない……」
 まるで破裂寸前だった風船が一気に萎むかのように、怒りで紅潮していた輝彦の顔は急速に青褪めていった。そこに居るのは、社会的に絶大な力を持つ大企業の社長ではなく、ただの子煩悩で娘を溺愛するひとりの父親であった。輝彦がゆっくりと鏡子へ近づき、そっと抱き寄せようとした。それは、輝彦が自身の平常心を取り戻そうとしているかのようだった。娘に失敗などありえない。娘の人生は順風満帆でなくてはならない。そう自分に言い聞かせているようだった。そしてそれを鏡子自身に認めてもらおうと抱き寄せようとした瞬間、輝彦の腕は鏡子に振り払われた。
「鏡子……?」
 狼狽える輝彦の口から出た娘を呼ぶ声には、もはや先程のような力強さは完全に失われていた。発した声の一部は声にならず喉で空気をヒューっと鳴らすだけで、どこか滑稽でもあった。
 対する鏡子は、まるで父の威厳を奪い取ったかのように、その瞳に年齢とは不釣り合いな力がみなぎっていた。しかしそれは、これまで自分を祭り上げてきた父への怒りではなく、何かもっと別の強い決意を心に決めているような力強さに見えた。その場に居合わせた鷺ノ宮にはそう見えていた。その瞳から発せられる力が輝彦の瞳を射抜く。
「お父様、わたくしは自分の未熟さと無力さからは逃げませんわ!」
 それだけ言うと、鏡子は背中を向けて控室を去っていった。

 ステージが終わり、大勢の招待客がワイングラスを片手に談笑しているダンスホールへ再び鏡子が戻ると、司会用のマイクを取ってホールの中央に立った。マイクのハウリング音でその場に居た者たちが一斉に鏡子の方を向いた。大勢の視線が自分に向いているのを確認すると、鏡子は一度深呼吸をした。
「皆様、先程のステージではわたくしが未熟であるがゆえに、お恥ずかしいところをご覧にいれてしまいました。アイドルに憧れてこのような素晴らしいステージとドレスを父から戴きましたが、わたくし自身がそれに見合った実力を着けなければいけないと痛感いたしました。ですので、わたくしは憧れを現実にするため、中学校はアイドル養成学校に入学し、そこでアイドルデビューをすることをこの場で宣言いたします!」
 毅然とした鏡子の声がダンスホールに響き渡ると、暫くの静寂ののち、大勢の拍手が贈られた。そこへ、控室から慌てて輝彦が駆け寄ってきた。
「鏡子! 皆様の前でいきなり何を言い出すんだ! お前は、もう進学する中学も私が決めてるんだぞ!」
「お父様、わたくしはもう、家の決まりやお父様の一存で最初から敷かれたレールを進むのはやめにしますわ! どんな道に進むのか、これからはわたくし自身で決めます!」
 鏡子の言葉に反応して、招待客から再び惜しみない拍手が贈られた。場内は、完全に鏡子のペースに飲まれていた。もはや自分一人ではどうにもならないと悟った輝彦は肩を落とした。そのすぐ横へ、そっと鷺ノ宮が歩み寄ってきた。
「旦那様、どうか気を確かにされてください。僭越ながらこの私も、鏡子お嬢様の夢、応援しとうございます。素晴らしいではありませんか。お嬢様自身が自ら夢に向かって何をするべきか考えて、それを実現させようとしているんですから」

 幼い頃から鏡子の傍につき、仕事で多忙な自分よりも多くの時間を鏡子を見守ってきた智者が言うのだ。きっとそれは確かなものなのだろうと輝彦は確信した。
「そうだな……私の知らないうちに、立派に成長していたんだな……」
 鳴り止まない拍手を送る招待客に向かって、鏡子はスポットライトに照らされながらいつまでも大きく手を振り続けていた。
「鏡子!」
 輝彦が娘の名を呼んだ。鏡子が振り向くと、ただ一言だけ告げた。
「アイドルになるなら、トップアイドルを目指しなさい」
 そこに居たのは、先程まで狼狽えていた父親でも、エンジニアに傍若無人な態度を振る舞う社長の姿でもなかった。それはまさしく、一流企業を背負って立つ、トップと呼ぶに相応しい堂々たる風格を見せる男、光明寺輝彦の姿であった。だからこそ、鏡子は輝彦の放った言葉の重みを十分に理解し、噛み締めていた。
「はい!お父様」

 鷺ノ宮は、二年前の鏡子の誕生日パーティのことを思い出していた。あれから二年と数ヶ月。鏡子はあの時の宣言通り、四ツ星学園で中学生生活を送っている。今はまだ駆け出しのアイドルだが、着実に憧れを現実にしている。そして、父輝彦との約束を果たすために今日も全力でアイカツに励んでいるのだ。
「……聞いていますの? 鷺ノ宮。今度から迎えに来るならもっと普通の車にして頂戴。大体わたくしなど、まだ駆け出しのアイドルなのですから、自分の足で現場まで行くのが普通ですのよ?」
「それは聞けないお願いでございます、お嬢様。それにお嬢様が今はアイドルとしてこのリムジンでの送り迎えが相応しくないと仰るのでしたら、早く相応しくなればいいのです。トップアイドル、S4に」
 鏡子は言い返せなかった。そうだ、自分が父との約束を果たし、S4になればいい。それだけの話なのだ。毎日繰り返されていたふたりの舌戦は、老紳士の勝利で幕を閉じた。
 一台のリムジンが、四ツ星学園から出発した。